働かなくなると人はうつ病になりやすいのか

札幌市西区の精神科・心療内科、ことのはメンタルクリニックです。
「仕事を辞めたら、毎日好きなことをして暮らしたい」
「お金さえあれば、働かない方が心も健康になるのでは」
「でも、定年後に急に元気がなくなった人の話も聞く」
働かなくなった後の生活を想像すると、解放感と不安の両方が浮かぶかもしれません。
結論からいうと、働かなくなったことで心の調子が悪くなる人はいます。しかし、「人間は働いていないとうつ病になる」というほど単純ではありません。仕事から離れることで、むしろ心の健康が改善する人もいます。
研究を読み解くうえでは、失業、定年退職、自ら選んだ早期リタイア、療養のための休職を分けて考える必要があります。
失業すると心の不調は増える。ただし「働いていない人」全員の話ではない
2025年に公表された、38件の前向き縦断研究をまとめたメタ解析では、失業している人は継続して就労している人より、抑うつ、不安、心理的苦痛などの症状が強い傾向がありました。また、再就職後には症状が改善する傾向も認められています。
ただし、研究間のばらつきがあり、エビデンスの確実性は低いと評価されました。「仕事を失うと、誰でも一定の割合でうつ病になる」と言える結果ではありません。
ここでいう失業は、一般に、働く意思がありながら仕事に就けていない状態を指します。
希望する仕事が見つからない人と、生活資金を確保して自らリタイアした人では、同じ「仕事をしていない」という外見でも、経験していることが違います。
さらに、研究で測定される「抑うつ症状」と、診察で診断される「うつ病」も同じではありません。気分に関する質問票の点数が上がったことを、そのままうつ病の発症と読み替えないことが大切です。
退職の研究では、反対の結果も出ている
興味深いことに、退職については「心の健康が悪化する」という研究と、「改善する」という研究の両方があります。
2021年の25件の縦断研究をまとめたメタ解析では、退職と抑うつ症状の増加との関連が報告されました。ただし、退職全体の効果量はd=0.044と、平均的にはごく小さいものでした。本人が望まない退職では関連が比較的大きく、自発的な退職や制度上の定年退職では、統計学的に明確な増加は確認されませんでした。
一方、41件の研究、約56万人を含む別のメタ解析では、退職は抑うつのリスクが低いことと関連していました。ただし、こちらも研究間のばらつきが非常に大きく、全員に当てはまる保護効果とは言えません。
これらは、片方だけを採用すればよい話ではありません。
研究に含まれる人、退職の理由、元の仕事内容、経済状況、退職後の経過期間、抑うつの測り方が異なります。強い負担から解放された人が多い研究と、望まず仕事を失った人が多い研究では、結果が違っても不思議ではないのです。
「退職は健康に良いか、悪いか」という問いには、まず「どのような退職か」を付け加える必要があります。
自分で選んだ退職かどうかは、大きな違いになる
2022年のメタ解析では、本人が望まない退職を経験した人は、働き続けている人と比べ、抑うつのリスクが約1.31倍でした。
反対方向の関連もあり、もともと抑うつがある人は、その後に望まない退職を経験するリスクが約1.70倍でした。
この双方向性は、臨床でも重要です。
仕事を失って気分が落ち込んだのか。すでに始まっていた抑うつによって集中力や対人関係が悪化し、仕事を続けにくくなったのか。実際には、両方が重なっていることも考えられます。
そのため、退職後の不調を診るときには、退職した日だけでなく、その前から睡眠、食欲、判断力、欠勤などがどう変化していたかを確認する必要があります。
「仕事を辞めたから、気が緩んだのだろう」という説明では、病気の始まりを見落としかねません。
仕事は、給料以外にもいろいろなものを提供している
仕事を失ったときにつらいのは、収入が減ることだけではありません。
社会心理学者のマリー・ヤホダは、仕事には収入を得るという明らかな機能に加えて、本人が普段あまり意識していない機能があると考えました。「潜在的剝奪モデル」と呼ばれる考え方です。
その後のメタ解析でも、時間の構造、人との接触、共同の目的、社会的な承認、活動といった機能と、心の健康との関連が検討されています。
日常生活に置き換えると、次のように整理できます。
| 仕事が提供しうるもの | 日常での具体例 |
|---|---|
| 時間の構造 | 起きる時刻、出かける時刻、休日が決まる |
| 人との接触 | 同僚や取引先と顔を合わせ、会話する |
| 共同の目的 | 誰かと協力し、共通の目標に向かう |
| 社会的な承認や立場 | 担当があり、自分の存在を認められる |
| 活動の機会 | 移動し、考え、手を動かす理由がある |
もちろん、どの職場もこれらを十分に提供しているわけではありません。
それでも、仕事を辞めたときには、給料だけでなく「毎日を組み立てていた仕組み」まで一緒になくなることがあります。
仕事中は面倒だった定例会議が、実は週に一度、必ず誰かと話す機会でもあった。通勤は嫌だったけれど、毎朝外へ出る理由にはなっていた。退職後になって、そうした働きに気づくことがあります。
「暇だからうつになる」では、説明が足りない
自由な時間が増えれば、それだけで不調になるわけではありません。
同じ予定のない一日でも、「今日はゆっくり休もう」と自分で選べる日と、「何をしたらいいかわからず、一日が終わった」と感じる日では、意味が違います。
仕事を離れた後の生活を考えるうえでは、空き時間の長さだけでなく、その時間に何が起きているかを見ると整理しやすくなります。
人と会う機会が減っているのか。達成感を得られることがなくなったのか。経済的不安が頭から離れないのか。それとも、「働いていない自分には価値がない」という考えに苦しんでいるのか。
これは一つの研究で確定した分類ではなく、診察や生活の振り返りに役立つ視点です。
「暇をなくすために予定を詰める」という対応では、問題に合っていないことがあります。孤独がつらい人に、一人で行う課題を大量に増やしても、必要なものが補われるとは限りません。
つらい仕事でも、続けた方が健康なのか
失業と心の不調の関連を聞くと、「では、どんな仕事でも続けた方がよいのか」と思うかもしれません。
しかし、仕事の質は無視できません。
オーストラリアの縦断研究では、失業から心理社会的な条件のよい仕事に移ると、心の健康は改善していました。一方、裁量が乏しい、雇用が不安定、報酬が不公平と感じるなど、条件の悪い仕事に移った場合には、失業を続けた人より心の健康が悪化したという結果が報告されています。
この研究だけで、個人の退職や転職の正解を決めることはできません。それでも、「就職しているかどうか」だけでは健康への影響を判断できないことはわかります。
仕事は、人とのつながりや達成感を与えることもあれば、睡眠を奪い、恐怖や自己否定を積み重ねる原因になることもあります。
働くことの健康効果を語るときには、勤務時間、裁量、人間関係、安全性、報酬まで含めて考える必要があります。
FIREすれば、心の問題も解決するのか
FIREは、経済的自立によって早期リタイアを目指す考え方です。
生活資金の見通しを立てて、自分で選んで仕事を辞めることは、望まない失業とは状況が異なります。失業研究の結果を、そのままFIREに当てはめることはできません。
今回確認した研究も、主に失業や通常の退職を対象としており、若い世代のFIRE後にうつ病がどの程度増減するかを直接示すものではありません。
そのうえで、仕事の機能に関する研究から考えると、準備には二つの面があります。
一つは、働かずに生活できる経済的な準備。もう一つは、仕事を離れた後の日常をどう作るかという準備です。
例えば、会いたい人、続けたい活動、学びたいこと、楽しみにできる予定。これらは、必ずしも収入や成果につながる必要はありません。
「もう仕事をしなくてよい」という自由を得たときに、「明日、自分は何をしたいのか」という問いが、以前より大きくなることはあるでしょう。ただし、それをすぐ見つけられないからといって、リタイアに失敗したわけでも、うつ病になったわけでもありません。
休職中の人は、「休むとうつになる」と心配しなくてよい
ここまでの話を、療養中の方への「早く働いた方がよい」という勧めに読み替えることはできません。
すでにうつ病などで消耗している場合には、仕事の負担を減らし、休養と治療を確保することが必要です。
一方、回復に合わせて生活の範囲を少しずつ広げることもあります。その際に参考になるのが、うつ病の心理療法である「行動活性化」です。
これは、本人にとって意味があり、楽しさや達成感につながる活動を、状態に合わせて取り戻す治療です。2020年のCochraneレビューでは、通常のケアより効果がある可能性が示されていますが、エビデンスの確実性には限界があります。
行動活性化は、働くことを一律に求める治療ではありません。
短い散歩、負担の少ない会話、好きだった音楽を聴くことなど、始められる活動は人によって違います。日常で小さな活動を試すことと、専門家が行う体系的な治療も区別する必要があります。
大切なのは、活動した後の気分や疲れを見ながら調整することです。症状が強い時期に、「予定を埋めなければ」と新しい義務を増やす必要はありません。
診察では「働いているか」より、その前後の変化を確認する
退職や休職後に調子が悪くなったときには、次のような情報が診察の手がかりになります。
- 気分や睡眠の変化は、仕事を離れる前からあったか
- 仕事を辞めたことに、本人は納得しているか
- 収入や住まいなど、生活上の不安があるか
- 人と会う機会や、日中の活動がどう変わったか
- 以前は楽しめたことを、今も楽しめるか
退職への戸惑いや一時的な寂しさと、治療が必要なうつ病は同じではありません。ただし、気分の落ち込みや楽しめなさが続き、睡眠、食事、日常生活にも支障が出ている場合には、「退職したのだから仕方ない」と片づけずに相談してください。
働かなくなった後の心の健康を考えるとき、雇用の有無だけでは見えてこないものがあります。何から解放され、何を失い、今の生活で何に困っているのか。そこを具体的に確認することが、その人に合う過ごし方や治療を考える出発点になります。
参考文献
情報確認日:2026年10月23日
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情報確認日:2026年10月23日
執筆及び医学監修:高橋 和政(ことのはメンタルクリニック院長)