仕事を辞めると脳は衰えるのか

札幌市西区の精神科・心療内科、ことのはメンタルクリニックです。
「退職したら、一気に頭が鈍くなりそう」
「仕事を辞めた父が、以前よりぼんやりしている」
「脳のためには、何歳になっても働いたほうがよいのだろうか」
仕事を辞めることには、自由になる楽しみと、張り合いを失う不安の両方があります。
結論からいうと、退職後に記憶力の低下が速くなることを示した研究はあります。ただし、「仕事を辞めると、誰でも脳が衰える」「認知症を防ぐには働き続けるしかない」とまではいえません。
退職によって、考える機会、人との接点、身体活動、ストレスがどう変わるか。それらも含めて考える必要があります。
今回は、退職と認知機能をめぐる研究から、「働くことは脳によいのか」を考えます。
退職後、記憶力の低下が38%速くなった研究
この分野でよく紹介されるのが、英国の公務員を追跡したWhitehall II研究です。
2018年の論文では、3,433人について、退職前後の認知機能の変化が調べられました。観察範囲は退職前後それぞれ最大14年間です。
年齢などを考慮した解析で、退職後は退職前に比べ、言語記憶の低下速度が約38%速くなっていました。ここでの言語記憶は、提示された単語を覚えて思い出す課題で測定されています。
ただし、この数字は「退職すると記憶力が38%失われる」という意味ではありません。低下する速さの相対的な違いです。
また、抽象的な推論や、一定の条件に合う単語を挙げる言語流暢性では、退職による明確な低下速度の変化は確認されませんでした。Springer Nature Link
「脳全体が急に老化した」と読み替えると、研究結果から離れてしまいます。
実は、研究をまとめても答えは一枚岩ではない
一つの研究で関連が見つかったからといって、それで結論が決まるわけではありません。
2021年のシステマティックレビューでは、23件の縦断研究が検討されました。全般的な認知機能への悪影響は明確ではなく、記憶については小さな悪影響を示す方向でした。
ここには、少し専門的ですが大切な点があります。記憶の統合効果量は約−0.09で、95%信頼区間はゼロをまたいでいました。研究間のばらつきも非常に大きく、「退職すれば記憶が確実に悪化する」と断言できる結果ではありません。PubMed
一方、2025年に発表された、22件の縦断研究を対象とするレビューは、全体として退職と認知機能の低さ、低下の加速などとの関連を示唆しました。ただし、評価する認知機能、職種、仕事で求められる知的負荷などによって結果は異なっていました。the University of Groningen research portal
二つのレビューでは対象研究やまとめ方が異なります。「新しい研究が出て、昔の結論が完全に否定された」という単純な話でもありません。
現在のところ、退職後の認知機能には注意を向ける価値があるものの、誰にどの程度の影響があるかは一律に決められない、という整理が妥当でしょう。
「辞めたから衰えた」のか、「衰え始めたから辞めた」のか
退職の研究で難しいのが、原因と結果の向きです。
例えば、以前より仕事の段取りが難しくなったり、ミスが増えたりして、退職を選ぶ人がいるかもしれません。その場合、退職後に認知機能の低下が確認されても、退職が出発点だったとは限りません。
また、年齢が同じでも、働き続けている人は、もともと健康状態がよい可能性があります。これは「健康労働者効果」と呼ばれる問題です。Springer Nature Link
この問題に近づくため、年金制度の導入や受給条件の違いを利用し、退職・就労の変化を調べる研究も行われています。
中国農村部の年金制度を利用した2023年の研究では、制度の利用に伴う認知機能への悪影響、特に時間を置いてから思い出す遅延再生への影響が報告されました。社会参加や知的活動の減少も、考えられる経路として示されています。IZA – Institute of Labor Economics
ただし、これは年金制度を通じた生活変化の研究です。所得、就労、人付き合いなどが同時に変わるため、「退職そのもの」だけを完全に取り出した実験ではありません。
まして、中国の高齢者の結果を、そのまま日本の若いFIRE達成者や、病気で療養している人に当てはめることはできません。
仕事には、意外に多くの「頭を使う場面」がある
日々の仕事では、特別な勉強をしているつもりがなくても、さまざまな処理を行っています。
相手の説明を覚える。優先順位をつける。予定を調整する。わからないことを調べる。自分と違う意見に対応する。
例えば、一つの会議に参加するだけでも、話を追いながら、自分の発言を考え、相手の反応を読み、必要な情報を思い出します。
退職によって、こうした機会がまとめて減る人はいるでしょう。これが「使わなければ衰える」という仮説の背景にあります。the University of Groningen research portal
ただし、給料が発生しているかどうかと、頭を使っているかどうかは別の話です。
地域の活動を企画する、楽器を習う、家族と旅行の計画を立てる、知らない分野の勉強を始める。仕事以外にも、覚えたり考えたりする場面はあります。
退職後の生活を考えるときは、「何の仕事を続けるか」に加え、「どこで学び、人と関わるか」という視点も役立ちます。
仕事を辞めて、むしろ調子がよくなる人もいる
一方で、仕事は知的刺激だけを与えるものではありません。過重労働、人間関係のストレス、睡眠不足など、負担の原因にもなります。
フランスのGAZEL研究では、退職に伴って精神的・身体的疲労や抑うつ症状の減少が認められました。ただし、これは認知機能の改善を直接証明した研究ではありません。The BMJ
認知機能との関係で興味深いのが、米国の看護師を対象にした研究です。退職によって生活の質が改善したと回答した人は、変化しなかった人より、その後の認知機能の低下が緩やかでした。pubmed.ncbi.nlm.nih.gov
もちろん、「退職を楽しめば認知症にならない」と証明したわけではありません。健康状態や生活環境が、両方に関わっている可能性があります。
それでも、「働き続けるほど脳によい」という一本の物差しでは、実際の生活を捉えられないことがわかります。
疲れ切った状態で無理を続けることと、適度な負荷で働くことは、分けて考える必要があります。
新しいことを覚えるのに、仕事は必要なのか
仕事以外の活動でも認知機能に変化が起きるのか。この疑問を調べたものに、「Synapse Project」があります。
高齢者がデジタル写真やキルト制作など、新しい技能を継続的に学ぶ研究です。約3か月の活動後、新しい学習を必要とする群では、負荷の低い活動をする群に比べ、エピソード記憶の改善が認められました。
ここでいうエピソード記憶とは、出来事や経験を覚えておく働きです。
ただし、すべての活動が同じように有効だったわけではありません。個別の群の比較では、写真を学ぶ条件の結果が特に明確でした。また、短期間の検査成績の改善であり、長期的な認知症予防を証明した研究ではありません。journals.sagepub.com
この研究から実生活へのヒントを考えるなら、「暇を埋めること」に加えて、「少しわからないことに取り組む機会」をつくることでしょう。
写真を撮るだけでなく編集を覚えてみる。料理をするなら新しい献立を試す。好きな分野について調べ、人に説明してみる。
慣れた楽しみを捨てる必要はありません。その中に、新しく覚える部分を少し足すという考え方です。
脳のためには、脳トレだけをすればよいわけではない
2025年にJAMAで報告されたU.S. POINTER試験では、認知機能低下のリスクがある60〜79歳の2,111人を対象に、運動、食事、認知的・社会的活動、心血管の健康管理を組み合わせた介入が検討されました。
2年間で、支援と実施計画がより充実した群は、自主的に取り組む群より、全般的認知機能の改善がわずかに大きいという結果でした。
ただし、両群とも生活習慣への介入を受けています。何もしない群との比較ではなく、認知症の発症予防が証明されたわけでもありません。JAMA Network
ここから得られる示唆は、認知機能を考えるときには、頭の体操だけでなく、身体や生活環境も一緒に見たほうがよいということです。
退職後の生活では、例えば次のような工夫が考えられます。以下は研究を踏まえた実践例であり、この組み合わせ自体の予防効果が検証されているわけではありません。
| 取り入れたい機会 | 日常での例 |
|---|---|
| 新しく学ぶ | 写真編集、語学、楽器などを少しずつ覚える |
| 人とやり取りする | 趣味の集まり、友人との約束、地域活動に参加する |
| 考えて形にする | 旅行を計画する、作品をつくる、調べたことを文章にする |
| 身体を動かす | 体調に合わせた散歩や運動を続ける |
| 健康状態を整える | 睡眠や気分の不調を相談し、持病の管理を続ける |
毎日を予定で埋め尽くす必要はありません。続けられる楽しみや、人と会うきっかけがあることから考えてよいでしょう。
療養のための休職まで、怖がる必要はない
ここまでの話を読んで、「休職したら頭が悪くなるのでは」と不安になる方もいるかもしれません。
しかし、主に高齢者の長期的な退職を扱った研究と、うつ病などの治療のために仕事を休むことは、同じ条件ではありません。
診療では、注意力や記憶の不調があるときに、抑うつ、不眠、薬剤の影響、身体疾患なども検討します。「働いていないから」と決めつけず、症状の経過と生活への影響を確認することが必要です。
療養が必要な時期に、脳を鍛えようとして無理に予定を詰める必要はありません。活動を増やす時期や量は、回復の程度に合わせて相談していきます。
また、物忘れが進行している、支払いや服薬管理が難しくなった、慣れた場所で迷うといった変化がある場合は、「退職して気が緩んだだけ」と済ませず、医療機関で相談してください。
仕事を辞めたあと、どんな一日を過ごすか
退職後の認知機能について、研究は注意すべき関連を示しています。しかし、退職そのものが脳を一律に衰えさせるとまではいえません。
仕事には、考える機会や人との接点があります。同時に、離れることで軽くなる負担もあります。
退職を考えるときには、「仕事を続けるべきか」だけでなく、「辞めたあと、誰と会い、何を楽しみ、どんなことを覚えてみたいか」も考えてみてください。
長く働く人生にも、仕事を離れて新しい活動を始める人生にも、頭を使う機会はつくれます。
参考文献・資料
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https://doi.org/10.3233/JAD-150867 - Park DC, et al. The Impact of Sustained Engagement on Cognitive Function in Older Adults: The Synapse Project. Psychological Science. 2014;25(1):103–112.
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https://doi.org/10.1001/jama.2025.12923
情報確認日:2026年10月23日
執筆及び医学監修:高橋 和政(ことのはメンタルクリニック院長)