若くして引退することは合理的なのか

札幌市西区の精神科・心療内科、ことのはメンタルクリニックです。
「十分なお金があるなら、若いうちに仕事を辞めた方が得なのでは」
「人生は一度きり。元気な時間を労働に使うのはもったいない」
「でも、何十年も働かずに暮らして、本当に後悔しないのでしょうか」
経済的自立を達成し、早期退職するFIREという生き方が知られるようになりました。生活のために働く必要がなくなることは、多くの人にとって魅力的です。
結論からいうと、若くして引退することは、十分に合理的な選択になり得ます。ただし、「働かなくても暮らせる」と「完全に仕事を辞めると人生がよくなる」は、別々に考える必要があります。
お金の計算が合っていても、時間の使い方や人とのつながりまで、自動的に整うわけではありません。
一方で、心身をすり減らす仕事を続けることが、いつも合理的とも限りません。
今回は、早期引退を、資産の多さだけでは見えてこない視点から考えてみます。
まず、「合理的」とは何を最大にすることなのか
生涯に稼ぐ金額を最大にしたいのであれば、十分な資産ができても働き続ける方が有利な場合があるでしょう。
しかし、人生で大切にしたいものは、生涯収入だけではありません。
家族と過ごす時間、健康、自由、創作、旅行、勉強。これらにも価値があります。
例えば、子どもが小さい時期に一緒に過ごす時間と、何十年も後に得られる自由時間は、同じものではありません。親と旅行したいと思っても、その機会がいつまでも残っているとは限りません。
つまり、合理性を考えるには、「いくら残せるか」だけでなく、「何のためにお金を使い、何に時間を使いたいか」を決める必要があります。
預金残高が最大になる生き方と、自分が納得する生き方は、一致しないことがあります。
若いうちに自由を得ることには、確かに価値がある
早期引退の大きな利点は、健康で活動できる時期に、まとまった自由時間を確保できることです。
「老後にやろう」と考えていることが、老後にも同じ条件でできるとは限りません。
体力を使う趣味や長期の旅、新しい分野への挑戦には、時間に加えて健康や意欲も必要です。
お金を増やすことばかりに集中すると、使うための時間や体力を減らしている可能性があります。
この点で参考になるのが、2017年に発表された「時間を買うこと」と幸福感の研究です。
米国、カナダ、デンマーク、オランダの計6,271人を対象にした調査では、家事代行など、時間を節約するサービスにお金を使う人ほど、生活満足度が高い傾向がありました。さらに実験でも、物を買った場合より、時間を節約するためにお金を使った場合の方が、幸福感が高くなりました。
これは、早期引退の効果を直接調べた研究ではありません。
ただ、「お金を自由な時間へ交換する」という考え方には、幸福の研究からも一定の裏づけがあります。
同時に、この結果は、自由時間を得る方法が完全引退だけではないことも示唆します。家事の外注、通勤の短縮、勤務日数の削減でも、時間は取り戻せます。
引退によって、心身が楽になる人はいる
「仕事を辞めると不健康になる」というイメージがありますが、研究結果はそれほど単純ではありません。
フランスのGAZELコホート研究では、退職の前後で、精神的・身体的な疲労や抑うつ症状が減少していました。一方、糖尿病や冠動脈疾患・脳卒中などの慢性疾患では、退職に伴う明確な変化は認められませんでした。
ここで面白いのは、「疲労や気分が改善すること」と「慢性疾患が減ること」が、同じようには動かなかった点です。
仕事から離れて楽になったという実感は、大切な変化です。しかし、それだけで身体の病気まで改善したとはいえません。
反対に、慢性疾患の数字が変わらないからといって、疲労から解放された価値が小さいわけでもありません。
長時間労働や強い対人ストレスがある人にとって、仕事を減らすことは、収入を失うだけの出来事ではありません。健康や生活を取り戻す機会にもなります。
「早く辞めた人ほど早く亡くなる」は、そのまま信じてよいのか
引退について調べると、寿命との関係が気になるかもしれません。
しかし、退職年齢と死亡率の研究には、大きな落とし穴があります。
体調が悪くなったために、早く退職する人がいることです。
この場合、早期退職した人の死亡率が高くても、「仕事を辞めたから亡くなりやすくなった」とは限りません。退職の原因になった病気が、その後の死亡にも関わっている可能性があります。
逆に、高齢まで働ける人は、もともと健康である可能性があります。これが、健康労働者効果と呼ばれる問題です。
2020年の退職と死亡率に関するメタ解析でも、退職前の健康状態などを調整することが、結果の解釈に影響していました。
もう一つ興味深いのが、オランダの制度変更を利用した研究です。
研究者らは、公務員の早期退職給付の対象年齢が一時的に引き下げられたことを利用し、退職の影響を推定しました。その結果、制度によって早期退職を促された男性では、5年以内の死亡確率が2.6パーセントポイント低下したと報告されています。
ただし、これは特定の制度と対象者についての結果です。若いFIRE実践者にも同じ利益があると示した研究ではありません。
退職と寿命の関係を、「働けば長生き」「辞めれば健康」のどちらか一方で説明するのは難しいのです。
脳への刺激まで、一緒に引退させない
では、認知機能はどうでしょうか。
英国のWhitehall II研究では、公務員3,433人について、退職前後の認知機能の変化を調べています。
退職後には、言語性記憶の低下が速くなることと整合する結果が得られました。一方、推論や言語流暢性など、ほかの認知領域では同じような影響は明確ではありませんでした。
つまり、「退職すると脳全体が急に衰える」といった話ではありません。認知機能のどの部分を見るかによって、結果が異なります。
また、この研究から「仕事に認知症予防効果がある」「若くして辞めると認知症になる」とまではいえません。
ここから生活設計の上で考えたいのは、仕事が日常的な認知課題を提供している点です。
人の話を理解する。新しい情報を覚える。予定を組み立てる。予想外の問題に対応する。
仕事を辞めると、こうした機会が減る人もいるでしょう。一方、引退後に勉強や創作、人との交流が増える人もいます。
重要なのは、会社に所属しているかだけでなく、引退後にどのような活動が残るかです。
自由時間は、多ければ多いほど幸せなのか
忙しいときには、「予定が何もない生活」に憧れます。
しかし、予定がなくなった後にも、同じ満足が続くとは限りません。
2021年の研究では、米国の計35,375人のデータと二つの実験から、自由時間と幸福感の関係が検討されました。
自由時間が少なすぎることは幸福感の低さと関連していましたが、時間が増えるほど、どこまでも幸福感が上がるわけではありませんでした。自由時間が非常に多い場合には、「充実したことをしている感覚」の乏しさが、幸福感の低さに関わる可能性が示されています。
これは「暇な人は働くべき」という結論ではありません。
趣味でも、学習でも、誰かを手伝うことでも、自分にとって手応えのある過ごし方はできます。
仕事が嫌だった人でも、その仕事に含まれていた達成感や人との接点まで、嫌だったとは限りません。
退職を考えるときには、「何をなくしたいか」に加えて、「何は残したいか」も考える必要があります。
資産だけでなく、「再び稼げる力」も持っている
ここからは、研究結果そのものではなく、早期引退を判断するための経済的な整理です。
引退の計画では、預金や株式など、目に見える資産に注意が向きます。
しかし、仕事で得た知識、技能、信用、人脈も、将来の収入につながる資源です。経済学では、こうした能力を人的資本として捉えます。
若い人は、金融資産に加えて、これから働いて収入を得られる期間を持っています。
完全に仕事を離れる場合には、今の給与だけでなく、その後に同じ条件で働ける可能性も考える必要があります。
「必要になったら復帰する」と考えていても、以前の職場、勤務条件、収入がそのまま戻るとは限りません。知識の更新や実務経験が重要な職種では、離職期間の意味も変わります。
もちろん、仕事を続ければ必ず能力が高まるわけでもありません。引退後の学びや活動によって、新しい能力が育つこともあります。
ただ、金融資産が十分かどうかと、将来の選択肢が十分に残るかどうかは、別に確認した方がよいでしょう。
若い引退ほど、「将来の自分が変わること」を織り込む
早く引退するほど、その後の生活は長くなります。
その間には、物価や資産価格だけでなく、家族構成、住みたい場所、健康状態、興味関心が変わる可能性があります。
現在は低い生活費で満足していても、将来も同じとは限りません。
また、「今は仕事が嫌い」という気持ちと、「これから何十年も働きたくない」という気持ちは、同じとは限りません。
環境が変われば、やってみたい仕事が出てくることもあります。
こうした不確実性を考えると、判断基準は「今の生活費を払えるか」だけでは足りません。
支出が増えたときに調整できるか。働きたくなったときに戻れるか。資産が減ったときにも、生活への納得を保てるか。
早期引退の合理性には、計画の精密さとともに、計画を変更できる余地も関わります。
「完全に辞める」前に、仕事の量を変える方法もある
仕事を続けるか、完全に辞めるか。
この二択で考えると、判断が難しくなることがあります。
実際には、勤務日数を減らす、責任の重い役割から離れる、好きな業務だけを残す、一定期間休むといった、中間の選択肢もあります。
一般的な判断材料を整理すると、次のようになります。
| 判断する点 | 完全引退を選びやすくする条件 | 段階的に仕事を減らすことを検討したい条件 |
|---|---|---|
| 仕事による負担 | 心身への負担が強く、調整も難しい | 業務や時間を変えれば負担を減らせる |
| 生活費の見通し | 変化に対応できる余裕がある | 現在の低い支出が続くことに依存している |
| 引退後の活動 | 続けたい趣味や活動が具体的にある | 辞めた後の暮らしをまだ想像しにくい |
| 人とのつながり | 職場以外にも交流の場がある | 交流の大部分が職場に集中している |
| 仕事から得るもの | 収入以外の価値をあまり感じない | 達成感や学び、人との関係は残したい |
| 復帰のしやすさ | 戻る方法や条件を具体的に確認できている | 長期間離れると復帰が難しくなる可能性がある |
これは医学的な判定表ではありません。自分が何を手放し、何を得ようとしているのかを整理するためのものです。
可能な範囲で仕事を減らし、実際に生活がどう変わるかを確かめることには意味があります。
想像していた自由と、毎日過ごしてみた自由が、同じとは限らないからです。
休養が必要なときに、人生全体の結論を急がない
精神科の視点から、もう一つ付け加えたいことがあります。
強く疲弊しているときには、「今の仕事から離れたい」と「今後一生、働きたくない」が、ひと続きに感じられることがあります。
まず負担から離れる必要がある場合でも、その時点で人生全体の方針まで決める必要はありません。
休養や治療、職場環境の調整によって、希望する暮らしが変わることもあります。
一方で、回復した後にも、仕事を減らす選択や引退する選択が、自分に合っていると感じることはあるでしょう。
早期引退を病的な逃避と決めつけることも、疲弊している最中の判断を生涯の希望と決めつけることも、避けたいところです。
目標を「最短で辞めること」だけにしない
退職に関する研究の多くは、中高年の人や年金制度の対象者を調べています。
30代や40代で十分な資産を作り、自発的に引退する人の、その後数十年を直接評価した証拠としては限界があります。
そのため、「科学的に早期引退が正解」とも、「若いうちに辞めると必ず後悔する」ともいえません。
それでも、考えるための手がかりはあります。
自分にとって価値の高い時間を確保すること。過剰な負担から離れること。人とのつながりや学びを残すこと。そして、将来の自分が考えを変えられる余地を持つことです。
若くして引退することが合理的かどうかは、引退した年齢だけでは決まりません。
仕事を辞めることで得られる生活が、自分にとってどれほど望ましいものなのか。その生活を、変化に対応しながら続けられるのか。
「何歳で辞めたか」という記録よりも、辞めた後の一日をどう過ごしたいか。その方が、判断に役立つ問いなのだと思います。
参考文献・資料
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情報確認日:2026年10月23日
執筆及び医学監修:高橋 和政(ことのはメンタルクリニック院長)